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競輪場情報

競輪の歴史(②全盛期~現在)



競輪の開催は、様々な困難に直面しながら現在に至っています。ここでは、競輪の全盛期から現在に至るまでの経緯を紹介します。

競輪の人気と問題点

競輪の人気と問題点

日本における第1回の競輪開催以後、競輪は爆発的な人気を誇る公営競技となりました。日本各地に競輪場が相次いで建設され、自転車競技法の施行からわずか5年程で全国63ヵ所へと拡大しました。

しかし急速に拡大したため、いくつかの問題も生じてきました。主催者側が競輪競技に対して不慣れであったため、運営に支障をきたす事態に陥ったのです。原因のひとつは、選手へのルールや理念などに対する教育不足です。また、賭けごとである競輪競技の特性上、しばしば暴動事件に発展してしまうことがありました。

1949年に起きた「大阪住之江競輪場」での事件を発端に、1950年には「鳴尾」「川崎」の競輪場でも激しい暴動が起きてしまいました。これらの事件は、マスメディアから激しい批判を浴び、競輪廃止論議まで噴出しました。その結果、2ヵ月間、競輪の開催を全面的に自粛する事態に発展します。

この問題は当時の国会でも取り上げられましたが、競輪廃止はかろうじて否決され、以後の開催を続けることができました。しかし、その後も暴動事件に発展する大会が断続的に続いたため、競輪は常にマスメディアからの強い風当たりにさらされることになりました。

競輪場の廃止

競輪場の廃止

昭和30年代になると、一時は全国に63ヵ所も開設された競輪競技場が、相次いで廃止に追い込まれる事態となりました。発端は、1955年1月、群馬県前橋市で河野一郎農林大臣が「競馬は、土曜日と日曜日、祭日以外は開催しないことを閣議決定する」と発言したことでした。この発言が波紋を広げ、翌日には閣議申し合わせが行なわれ、競馬に同調する形で、競輪も開催を土日と祭日に限定することになったのです。

この決定を受けて大阪府は、土日と祭日だけの開催では収益が見込めないと判断をし、1959年以降の競馬、及び競輪の開催を中止すると表明しました。この表明を受けて、大阪府営である「豊中競輪場」は1958年6月をもって廃止することになりました。1958年には「京都競輪場」が廃止となり、続いて1960年には「神戸競輪場」、1961年には「明石競輪場」が廃止になっています。1962年3月に「大阪中央競輪場」が廃止し、「大阪住之江競輪場」も1964年には休止となり、大阪市内にあった競輪場はすべて消滅してしまったのです。

近畿圏の競輪場の廃止は他県にも波及し、1966年までに「札幌競輪場」「福岡競輪場」「会津競輪場」「長崎競輪場」と、次々に姿を消しています。また、競輪のメッカとして知られていた「後楽園競輪場」も1973年3月には休止となりました。政治的な理由によって競輪は衰退していき、以後の競輪競技の開催に大きな打撃を与える結果となりました。

競輪の衰退と打開策

競輪の衰退と打開策

競輪の衰退に追い打ちをかけたのが、競艇の台頭です。1965年度の競輪の売上げは、他の公営競技を大きく上回っていました。しかし、その後は伸び率が鈍化していき、1975年には競艇に追い越される結果となってしまったのです。

この事態を打開するために、競輪プログラム改革構想(KPK)という番組スキームを導入し、新たな競技であるKEIRINグランプリの創設を行なっています。しかし、それらの打開策も衰退に歯止めをかける効果は期待できず、競輪競走にとって更なる改革が求められているのが現状です。